旅客機の席に腰かけて飲み物を飲んでいる。それは疑いようもなく私が今まで乗ったどれよりも巨大かつ凝ったつくりの乗り物である。通路は何十年もかけて無計画に掘りすすめた地下街のように節操なく折れ曲がり、またその幅は一定することがなく、階はいつも意外なつながりをみせる。区画という概念が薄く、ほとんど迷宮と言っていい入り組みようだから、ぼんやり歩いていては元の位置へ帰れなくなるかもしれない。それを怖れるからだろうか、遊戯施設が設けられた飛行機にも関わらず、私以外の誰も席を立たずおとなしくしている。この飛行機を外側から見ることはできないし、案内図も用意されていないので想像するしかないが、この飛行機は真四角で、それぞれの四隅に小型の飛行機が接続されていることだけ私は知っている。四隅の小型機は離陸時に動力として必要だったが、安定飛行に移った今はもはや重荷でしかない。

そこで私は4機の小型機を切りはなすようにと、機長から仕事を与えられていたのだった。

 

シーンがとび、私は3つの小型機を海に落とすことに成功して、4つめに向かっていた。もう道にも慣れてきた。

この飛行機の中央には大広間があり、それにぐるりと張りついた通路からは広間の様子をところどころガラス越しに確認できる。中央広間はほかの場所とは違い、上から明るい陽が差して、緑が茂り、小さな池まで掘られている。そのほとりにゆったり座れる椅子が等間隔に置かれて、ちょっとした植物園のような景色が広がっている。人工的に感じさせないよう気を配って、完全に人工的に設計された空間。ここには小鳥が飛んでいても不思議はないし、もし見つけたならそれは野鳥のように見えることだろう。明文化されていないが、この広間に入れるのは名を知られた資本家に限られる、というルールが敷いてあり、鍵も門番もないが禁を破って入り込む者はいない。

 

さて、今さっき海に落とした3つめの小型機の場所と、これから目指すべき4つ目は四角の対角線上の角にあり、ぐるっと外周を歩くよりは、中央広間を直線で進むほうが時間を節約できる。それに気づいた私は、ショートカットするために中央広間に忍びこんだ。添乗員に見つからないことを祈りながら下生えに身を隠して顔をあげ、そこで初めて、3つの螺旋階段が「上の階」に伸びているのが視界に入った。

階段の上には動く人が複数いる。目を凝らしてもピンボケた、のっぺりした像で、登っているのか降っているのかさえわからないが、そのうちのひとりが30歳くらいの男であり、こちらを両眼で今とらえたことがわかった。

彼は手から光る球を3発発射し、それは餌をみつけた鳥のように私の顔をめがけて飛んでくる。あの球に当たれば火傷を起こす。と同時に、それはカラーボールのように痕をのこす役割も兼ねている。恐るべき威力があるにもかかわらず、私は不思議と恐怖を感じない。それよりも男の視線が、冷たさとして体に伝わってくる。彼はいっさいの罪悪感を持たず、闖入者への攻撃を、静かな広間を守る義務として自動的に、ほとんど無関心に行うことができる。人を見つけたなら球を出せばいい。あとはそれが勝手に仕事をしてくれるから、もう心を煩わせる必要はない──。彼にとって球を出すことは食洗機のボタンを押すくらい無感動な日々の習慣のひとつにちがいない。幸い球はそれほど速くないので、私は植え込みを利用して球を迷わせるように進み、来た時とはべつな扉から広間を抜け出した。

 

たどり着いた4つめの小型機は、母機とチューブで繋がっている。私はチューブの中へ、ウォータースライダーの要領で手を胸のあたりで組んで滑り落ちた。小型機のなかにはまだ人が残っているから、すぐに切りはなしの作業はできない。機内アナウンスが避難をうながし、少しずつ人が減り始めてきた。機内にはひとつスクリーンがあり、その画面の中に、くたびれたスーツを着た教授が現れた。講義はこんなふうに始まった。

 

「昨今の社会情勢を見ていますと、様々なまやかしが我々の上を覆っている──まるで厚い雲のように覆ってるかのようです。そうです。様々な雲がありますね。このまやかしの雲の数々に足場を求めてしまうと、いずれひとの目は雲だけを追うようになってしまうでしょう。そのうち私たちは地を視界に入れず、雲に向かってどこまでも行進をはじめる。そうなると集団で川に落ちたり、火を持って戦いをはじめたり、まあひどく殺伐とした結果に陥ることが往々にしてあるものでして、やはり人はあまり浮ついた雲だけをみて生きるべきではないのかもしれないのではないか。と、なぜ唐突に説教じみたことをいうかと申しますと、これから私がいたします話は皆様にとっては雲をつかむような、まさに、まやかし、と捉えられて、まるで相手にされず、まったく否定された上で記憶から捨てられてしまう、その可能性を危惧するからなのです。そこでまず、私はみなさんと変わりなく、まやかしを歓迎するような人間ではないこと、加えてみなさんを惑わせる意図を持って話すわけではないことをお伝えしたい。どうか怖れずに聞いて頂きたい。信じて頂きたいのです。

 

みなさんが信じるに足る講義をする、だから私は信じるに足りるものである、というのは確かにトートロジーめいてはいます。それでなにかはっきりとしたエビデンスを示すことが、まやかしと事実を区別する上で必要な手続きである。そう仰りたい方もおそらくいらっしゃるでしょう。よくわかりますが、しかし残念ながら、私の研究する分野ではそのような確固とした再現性が基礎付けられない、原因と結果がきれいに繋がるような図を示すことができない、唯物的因果論からは半身、重心を外に置いた種類の学問なのです。それでもいくらかの現実のデータをもとに切り開かれる部分は存在します。するのですが、しかしあいにく今私の手元には資料がなく、スライドを使うことができません。しっかりした準備を怠ったことをここに謝罪いたします。とはいえ、みなさん、いま申し上げたとおり、それが仮にここにあったとしても、残念ながら私の説を完全には証明し得ない。いかに数字を並べても、それは論の周辺をまわるもので、完全に中心を固定することはできない。それどころか、あまりに多くの数字を並べるとはんたいに記号の群れが一種の雲を形成し、──そう、まやかしと化してしまう。そのような数値化された疑似科学が横行しているのはみなさまもご存知の通りです。では今から私がはじめる議論が疑似科学とはちがうものであると──むろん私はそう主張するわけですが──いかに説明するのだ、という問いがみなさんのなかに生まれたかもしれません。それについてはこれから語る具体的な内容によって判断して頂くしかないのですが、ここで前もって強調しておきたいのは私の研究の基本的な態度は、地を這った現地の取材を元にしているということです。

仮にあなた様の耳に私の説が、雲をつかむような話に響いたとしても、それは地面をしっかり踏みしめ、はいずり回ったところから出発していることを気に留めて頂きたいのです。たよりない水蒸気の形ばかり話すように思えたとしても、その雲は様々な人々がそのとき光を目に焼きつけた一瞬一瞬が折り重なる生地のようなものであり、それこそが、人工衛星からの数値的な記録よりもじつは世の内実を示しているものなのだと、まずはそのように述べておくに留めましょう。さてしかしここでみなさんにこのような疑問が生まれたかもしれません。それは──」と言った調子で学者は「実はこうなのです。しかしみなさんはこう思われるでしょう。それにはこう答えます」という反復のレトリックで熱く語るのだが、話はいつまで経っても前置きの段階に留まったままだ。

私は彼の人柄に好感をもっている。それは大きめの眼鏡の感じとか、きっちりしていないが清潔感のある着こなしとか、じっと上を見て考えながら語る姿とか、話の内容というより見た目からくる印象なのだけど。

しかしその講義はあまりにも枕が長い。これではむしろ聴衆に、この人は何か隠しているから話が進まないんじゃないかと疑われ、信頼を損ね、逆効果を招くのではないかと心配になってくる。彼は毎回このような長い前置きを重ねているんだろうか。だとしたら誰でもいいから仲間は「君は話に入るまでが長いよ。本題を示してからじゃないと聞く人が飽きてしまう」と言ってあげるべきだ。

いつまでたっても学者は自明性を問うループから逃れられず、彼がなんの研究をしているのかさえまだわからない。ともあれ私は、どうかこの生真面目で悲壮な男の想いが多くの人の心に、曲解されず届けばいい、と祈りたくなるような気持ちになっている。しかし周りをみると乗客の退避は済んでいて、最後の小型機のなかにはもう誰もいない。