ポロさんが家にやってきた。ポロさんはメキシコ人の画家で、私が幼い頃ときどき訪ねてきては父と議論(たとえば国による画材の違いについて)をして、それが終わると私の頭をなでて帰っていく、穏やかな目をしたおじさんだった。彼の日本語はたどたどしいが、話の内容は子供にはつかみづらい抽象性がある。そのアンバランスなところに、むかし私は遠い異国の香りをかいでいたんだった。

長めの白髪に髭をたくわえて、それが両方もう少し伸びたならサンタクロースになれそうな風貌はかつての記憶のまま、20年以上経っても変わらない。顔立ちはサッカー監督のクロップに似て、それぞれ大きなパーツがダイナミックに動く。ポロさんは姿の変わったはずの私を私と認識できているようで「久しぶりだね」と挨拶してくれた。

私はポロさんとまた会えたことを喜んでいる。それと同時に何を話していいのかわからない気まずさが多少ある。ここに父が居たなら、また日本の絵について話をしたりできるるんだろうけど。それにしてもなぜ彼はここに来たんだろう。という心の声にこたえるように、ポロさんはさっと立ち上がり「神社へお参りにいきますね。そのために来たんです」と言って外へ出ていった。私はあとをついて歩いた。

横からみるポロさんの腹は力士のように丸く、ベルトを覆うように垂れ下がっている。もし自分がこんなふうに太ったら歩きにくくて仕方ないはずだけど、ポロさんの動作は弾むように軽い。きっとこれが彼に1番合った体型なのだろうと思った。

 

坂になった細い路地を上り、真っ暗な神社にたどり着いた。おそらくここで彼は過去の自分自身と内的に交信するつもりなのだろう。シリアスな儀式の邪魔をしないように鳥居の外で待って、それから2人でレストランに入った。

ポロさんはディナーを予約していたらしく、奥のよさそうな席に通された。白いテーブルクロスの上にはランプとグラスが置かれ、中にウイスキーのロックが入っている。口にいれると花のような匂いがして、氷を入れるのも良いものだと思う。飲むうちに丸い氷は自然に砕けてばらばらになり舌触りが変わっていく。工夫された食前酒。

 

料理が来るまでのあいだ風にあたろうと思い、外に出てぼんやりしていた。猫の気配を感じたので目をやると、路上にひとり女性が座っているのが見えた。彼女の前には上方落語の見台のような台があり、その上にノートが1冊。覗きこむと数学の問題が書いてある。答えをじっくり考えてみるが、さっぱり解き方がわからなかった。

「簡単ですよ。やってみましょう」と台の向こうの人は言って、ペンで問題のよこに数字を書き込んだ。

それを頼りに、私はルートの解法を思い出して答えに辿りついた。もとは習ったことなのだ。彼女は微笑んでページをめくり、また問題の傍に小さく数字を書いた。問題は先ほどより複雑だが、補助のおかげでなんとか解ける。そのようなことをくり返しているうちに、私は数字に対するときのリズム感を取り戻していった。なるほど、この人は道で大人に勉強を教えるプロなんだろう。

お金を払おうとポケットに手を入れると500円玉の感触があった。握って手を出そうとしたとき、私の教師は「ボランティアなんです」と言って、手を横に振った。

「ボランティアで、どうしてこんなことを」と私は尋ねた。

「それは言えませんよ」と先生は低い声でいった。

「そうですか。とにかくありがとう。またぜひ教えてください」

「運が良ければね」

「そうか。今日は運が良かったわけか」

軽く返したつもりだったけれど、彼女は目を細めてかたく口を結んだ。それをみて、どのようにしたってこの人とは2度と会えないのだと私は知った。誰かに命令されているからなのか、それとも混み入った感情がつくりだした決意なのかはわからない。いずれにせよ、自分はそれを知ることができないし、おそらくこのさき我々にどれほど運に恵まれた1日が訪れたとしても、再会することはない。

私は後ろを向いて引き返し、細い坂道を下り、帰宅してコートをソファに置いた。そのときポロさんをレストランで待たせたままにしている事に気がついた。

 

f:id:yajirusi9:20220118032533j:plain