もうすでに取り壊されたはずの母の実家に、たくさんの知り合いが集っている。薄暗い居間には小学校のクラスメイトたちが並んでいて、彼らは子供だったり成長した姿だったりと年齢がまちまちに見えておかしな感じがするけれど、そこに鬼籍入りした祖母や叔母が混ざって歓談していることについては自然な印象を受ける。私はみんなの話には加わらず、どこかで時間をつぶそうと玄関を探す。が見つからず、建物はどこまでも伸びて、外に出ることなくいつのまにか私は喫茶店に来ている。その店は広めの廊下を改装したようなつくりで、左右にぴったり小さなテーブルと椅子が置かれてあり、細い間を通るのにいささか気をつかって進まなければならない。新幹線の中を通っているような感じだ。部屋の上部にはやはり電車に備え付けてあるような棚がのびて、そこに花瓶やお香といった洒落た小物が置かれている。内に、変わった箱がひとつあった。

その箱は遠くからみれば食パン一斤くらいの大きさなのだけれど、近づいてみればその半分くらいのかさに見える。知らず知らずレンズを覗かされているように大きさが一定せず、そして素材も何でできているのかわからない。木材の柔らかさがあると同時に金属的な光沢をもって、どこが奇妙かを言い表せないほど奇妙なものなのだけれど、一見するだけならニトリで売ってそうな平凡な収納用品のようでもある。私はその箱が欲しくなり、手を伸ばそうとするが届かない。そうしている間に店内の客が増えて視界を遮られ、箱がみえなくなってしまう。

「これは喜劇の箱だね」と子供の声がした。

喜劇の箱──。持っていれば、その人の1日は、1年は、あるいはもっと長いスパンでみても、最終的に喜劇的な時間に、朗らかな物語だったことになる──そのような力をもつ箱を、喜劇の箱と呼ぶのだそうだ。私はますますそれを手に入れたいと思うが、人の流れが穏やかになったあと、棚を見上げると、もう箱は消えていた。残念だが売り切れてしまった(盗まれたのかもしれない)ものは仕方ない。私は帰ってこの話を披露しようと思った。もし今のことを面白おかしく語ることができれば、喜劇の箱の力を借りなくても笑いは生まれるかもしれない。場の空気を喜劇的にすることについて、ちょっとした決意のようなものが自分の中にあることに気づく。またみんなの輪の中に帰ろうと思う。そのためにはこの長細い喫茶店から抜け出る扉を見つけないといけない。