人の流れにのって細い道を歩いている。まわりはみんな駆け足か早歩きで急ぎ、競争しているような雰囲気だった。自分はそれに参加した憶えはないし、慌てることはないと考えてゆっくり進んでいるが、半面では走ろうと思ってしかし足が言うことを聞かないもどかしさがある。歩みを遅らせるのは無意識か、それを隠そうとする意識によるものか、いずれにせよ人びとはどんどん私を追いこして、やがて道の先にだれも見えなくなった。このままでは行く宛がわからなくなってしまう、いやそもそも、自分は何を目指すか考えてもいなかった、だから彼らに置いていかれないように、無理をしても走っておくべきだったのではないかと反省の気持ちが湧いてくるが、今さらそんなことを思ってもどうしようもなかった。寄るべなさの中で、両脇を木々に覆われた緩やかなカーブを曲がり終えたとき、右手に何かを握っている感触が現れた。それは目には見えない、透明のロープのようだった。私は左手を同じ場所にもってきて、それを両手でしっかりつかんだ。たしかに荒縄の肌触りがある。よくみればロープは微妙に光を反射して、目の前にはうっすらと虹色の筋ができている。これを辿って進むうちに、さっき追いこして行ったランナーの姿が遠くに見えてきた。彼らはゴールテープを切ったあとひとかたまりになっている。その背後に丸く小さな湖があり、湖の中心には白く高い塔がそびえ立っていた。

集団に近づいてみると、すでにテープは撤去され、大会後の熱気も消えていた。いや、遠くからテープが見えたように錯覚しただけで、もともと大会なんてなかったのかも知れなかった。

 

軋む木の橋をわたり、塔の中に入った。一階はカフェになっているようだった。漆喰の壁にポトスの鉢が映えている。店主が空のコーヒーカップを持ったままやって来て、私を席に案内した。

「ここは古代ローマの遺跡でして」と彼は言った。「国から許可をもらって特別に営業させてもらっているんです。上の階は穴だらけなので登ることはお勧めしません」

そう言われると見てみたくなり、外階段から2階へ行くと、言葉通りに部屋は荒れて、さまざまな植物が生い茂っていた。壁の破れから種子と雨が入りこんでくるのだろう。

1階に戻ると、ちょうど店主がコーヒーとケーキを運んできたところだった。

「このケーキは3階のケーキです」と店主は言った。

話によると、塔の植物は階層によって生えてくる種類が異なっていて、ケーキ作りに向いた階があれば、動物の餌にちょうどいい素材が採れる階、薬草だらけの階など、それぞれ用途によってはっきりと区別できるのだそうだ。面白いのはそれら全てが、人の手を借りず自生しているところだった。店主は何らかの不足が起こると、目的の階に出向き、そこで植物を一気に刈りとり、全てをミキサーにかけて「階の団子」を生成する。彼が把握しているのは階層による特徴だけであるらしく、それはつまり私の前に置かれた「3階のケーキ」が具体的に何を原料に作られているかわからない事を意味する。毒草が混じっていたらどうなるのか、多少気味悪くもあるが、しかしこれはきっと歴史のあるやり方なのだろうから、と大雑把に信頼してみることにした。

隣の席では土鍋がぐつぐつ煮えている。店主は「魚の階」でとれた魚のすり身を出汁に溶かして、それを湯の中に入れた。すり身は固まるでもなく湯の中にふわっと広がり、これを男がスプーンですくって飲んでいた。店主と男、2人から「あなたもどうですか」と勧められたので、抵抗感を隠しながら飲んでみると、ほとんど何の味もしない。だから決してうまいとは言えないが、へその奥あたりに温かいものが灯り、いいものを食べた感覚が残った。あとで腹を壊すか知らないが、少なくとも話の種にはなる経験だと思った。

カフェのドアについた鈴が鳴って、中学生くらいの少年が2人店に入ってきた。店主の息子なのか常連なのか、彼らは気ままに店内をあるいて、1人がピアノの椅子に腰かけた。もう1人はホワイトボードに文章を書いたが、それはむかし自分が作った歌の歌詞だった。彼は言葉のところどころに線を入れ、このようにいくつかの要素に分割すれば、主人公の心情が循環しながら変化していることがわかると批評する。

もう1人の少年はその曲をピアノで弾きはじめた。1回目はダイアトニックコードだけの童謡みたいなシンプルなアレンジ、つぎにセカンダリドミナントモーションを細かく入れた装飾的なアレンジ、最後にコード感を排したクールで平板な弾き方で。彼が弾くとピアノは時々おもちゃの笛のような、また初期の電子音楽のような奇妙な響きを発する。あるいは、それはもしかしたら彼の声だったのかもしれない。演奏を終えると少年たちは外に出て、大木のそばで(その塔には意外なほど広い庭がついていた)走り回って遊んだ。私はさっきの音を思い出して、どれもとても良い演奏だったから、あの曲はもう彼らのものになったのだと、なにか誰かの忘れものを届け終えたときのような安堵を覚えた。