雑居ビルの屋上に建つプレハブ小屋を借りて生活している。ここは静かで眺めはいいし、サイズもちょうどいいし、窓を開ければ涼しい風にもあたれて住み心地は悪くない。

そこに、小学生高学年くらいの男の子たち5人ほどが自転車に乗ってやってきて──どこから入ったかはわからなかった。湧いて、という表現のほうが正しいかもしれない──玄関を抜け、勢いをつけて漕ぎ、そのまま隣のビルに向かってつぎつぎとジャンプして消えた。どうやらこの部屋は、彼らが遊び場所へ行くための近道に選ばれたらしい。しばらくすると再び子供たちが部屋に現れ、自転車を走らせ、遠くへ去っていった。同じことが何度もくり返される。

窓の外に目をやると、フェンス前でたむろしてカードゲームを楽しんでいる者たちもみえた。私は彼らをとくに歓迎したいとも、邪魔だとも感じなかった。雲が影をつくってまた晴れる気候の流れのように、蝶々がひざの横をすり抜けるように、それはこちら側から評価を下さず受け入れる種類のものなんだろうと考えていた。

 

いつの間にかまた別な子供の集団が部屋に湧いている。

今度はだれも自転車に乗っていなかった。

先頭の子がドアを開けて外へ出ようとした──そのとき、聞き覚えのある声の子供がひとりいるのに気がついた。彼はやわらかい髪を短かくして、角張った顔を左右に揺らし、細い腕でバランスをとりながらぎこちなく歩く。間違いない。木村くんだ。

私は子供の頃に1度、木村くんの歩き方を真似してからかった事があった。それが心残りになっていたから、謝るなら今しかないと、外に出た彼を追いかけ、うしろから肩をつかみ、自分の名を名乗った。

「木村くん。あのとき、むかしの俺は馬鹿だった。これはね、言うまでもないことだし、わかってると思うけど、君は君の歩き方を恥じる理由はない。身ぶりを攻撃するつもりなんてなかったのに、おかしな言葉が出てしまって。子供って無神経なところはあるとはいえ、それにしても……」

そのように言葉を並べながら、なぜ自分は遠回りに言い訳しているんだろうと思った。「からかって悪かった」とまっすぐに言わないといけないのに。

「いいよ、いいよ」といって、木村くんはうしろから私の体に腕をまきつけて、上下に揺すった。今ごろ言われても困るからと、ハの字になった眉に書いているようだ。そうだった。木村くんはこのようにさっぱりして優しい人なのだと、当時を思い出してなつかしい気持ちになり、自分のなかで固くなっていたものがほどけるのを感じた。

木村くんは手をふって友達の集団のなかへ帰っていった。何もないはずのビルとビルの隙間の空間がなぜか無数に光を散らして、おだやかな川面のようにみえた。

部屋に戻ると、誰が調理したのか、皿の上に焼いたそら豆が置いてあった。私はそれとビールを盆に乗せて階段を登った。木造の急な階段だった。上で1杯だけ飲んで、ゆっくり彼らを見送りたいと思った。

 

 

ボクシングの試合に出なくてはならないらしい。控室は用意されておらず、私はこれから戦う相手とおなじ空間にいて世間話をしている。相手は山本kidに似た顔で、身長は低いがたくましく筋肉が盛り上がり、どうみても自分より強い人間と思われる。というかそのように姿を検討するまでもなく、私がプロの格闘家とまともに試合できるわけはないのだから負けは決まっているし、試合のポイントは、いかにこちらがそこそこのダメージで倒れられるかになるのだろう。

スタッフからもらったヘッドギアをつけると視界が狭くなった。さらにその上からカメラを装着して、試合中はファインダーごしに相手を見るようにする必要があるらしい。けれど、なかなかうまく付けることができない。時々はぴったりした位置に来ても、カタリと瞬間でずれてしまう。それに、これが仮にうまく固定できたとして、相手の姿をきちんと捉えることができるとは思えない。ますます条件はきびしくなっていくようだ。このカメラはおそらく試合の記録を取るための意味なんだろうけど、でもさ──とそこでようやく気がついた。でも、ボクシングというのはお互いの顔面を殴り合うわけだから、カメラを目につけたりしたらあっという間にパンチで壊されてしまうじゃないか。そんな危険極まりないレギュレーションがあり得るものだろうか。

そこまで考えが進んで、私は装着を諦める理由が見つかったことを喜んだ。

カメラの破片で、怪我をするかもしれない。だから、置いといて、いい。

近くの棚にカメラをしまい、周りを見渡してみる。誰も自分を責める目をしない。安心した。やはり顔にカメラをつけてやるボクシングなんてないのだった。あとはリングでうまくやられる事だけを考えるだけだ。

 

人の流れにのって細い道を歩いている。まわりはみんな駆け足か早歩きで急ぎ、競争しているような雰囲気だった。自分はそれに参加した憶えはないし、慌てることはないと考えてゆっくり進んでいるが、半面では走ろうと思ってしかし足が言うことを聞かないもどかしさがある。歩みを遅らせるのは無意識か、それを隠そうとする意識によるものか、いずれにせよ人びとはどんどん私を追いこして、やがて道の先にだれも見えなくなった。このままでは行く宛がわからなくなってしまう、いやそもそも、自分は何を目指すか考えてもいなかった、だから彼らに置いていかれないように、無理をしても走っておくべきだったのではないかと反省の気持ちが湧いてくるが、今さらそんなことを思ってもどうしようもなかった。寄るべなさの中で、両脇を木々に覆われた緩やかなカーブを曲がり終えたとき、右手に何かを握っている感触が現れた。それは目には見えない、透明のロープのようだった。私は左手を同じ場所にもってきて、それを両手でしっかりつかんだ。たしかに荒縄の肌触りがある。よくみればロープは微妙に光を反射して、目の前にはうっすらと虹色の筋ができている。これを辿って進むうちに、さっき追いこして行ったランナーの姿が遠くに見えてきた。彼らはゴールテープを切ったあとひとかたまりになっている。その背後に丸く小さな湖があり、湖の中心には白く高い塔がそびえ立っていた。

集団に近づいてみると、すでにテープは撤去され、大会後の熱気も消えていた。いや、遠くからテープが見えたように錯覚しただけで、もともと大会なんてなかったのかも知れなかった。

 

軋む木の橋をわたり、塔の中に入った。一階はカフェになっているようだった。漆喰の壁にポトスの鉢が映えている。店主が空のコーヒーカップを持ったままやって来て、私を席に案内した。

「ここは古代ローマの遺跡でして」と彼は言った。「国から許可をもらって特別に営業させてもらっているんです。上の階は穴だらけなので登ることはお勧めしません」

そう言われると見てみたくなり、外階段から2階へ行くと、言葉通りに部屋は荒れて、さまざまな植物が生い茂っていた。壁の破れから種子と雨が入りこんでくるのだろう。

1階に戻ると、ちょうど店主がコーヒーとケーキを運んできたところだった。

「このケーキは3階のケーキです」と店主は言った。

話によると、塔の植物は階層によって生えてくる種類が異なっていて、ケーキ作りに向いた階があれば、動物の餌にちょうどいい素材が採れる階、薬草だらけの階など、それぞれ用途によってはっきりと区別できるのだそうだ。面白いのはそれら全てが、人の手を借りず自生しているところだった。店主は何らかの不足が起こると、目的の階に出向き、そこで植物を一気に刈りとり、全てをミキサーにかけて「階の団子」を生成する。彼が把握しているのは階層による特徴だけであるらしく、それはつまり私の前に置かれた「3階のケーキ」が具体的に何を原料に作られているかわからない事を意味する。毒草が混じっていたらどうなるのか、多少気味悪くもあるが、しかしこれはきっと歴史のあるやり方なのだろうから、と大雑把に信頼してみることにした。

隣の席では土鍋がぐつぐつ煮えている。店主は「魚の階」でとれた魚のすり身を出汁に溶かして、それを湯の中に入れた。すり身は固まるでもなく湯の中にふわっと広がり、これを男がスプーンですくって飲んでいた。店主と男、2人から「あなたもどうですか」と勧められたので、抵抗感を隠しながら飲んでみると、ほとんど何の味もしない。だから決してうまいとは言えないが、へその奥あたりに温かいものが灯り、いいものを食べた感覚が残った。あとで腹を壊すか知らないが、少なくとも話の種にはなる経験だと思った。

カフェのドアについた鈴が鳴って、中学生くらいの少年が2人店に入ってきた。店主の息子なのか常連なのか、彼らは気ままに店内をあるいて、1人がピアノの椅子に腰かけた。もう1人はホワイトボードに文章を書いたが、それはむかし自分が作った歌の歌詞だった。彼は言葉のところどころに線を入れ、このようにいくつかの要素に分割すれば、主人公の心情が循環しながら変化していることがわかると批評する。

もう1人の少年はその曲をピアノで弾きはじめた。1回目はダイアトニックコードだけの童謡みたいなシンプルなアレンジ、つぎにセカンダリドミナントモーションを細かく入れた装飾的なアレンジ、最後にコード感を排したクールで平板な弾き方で。彼が弾くとピアノは時々おもちゃの笛のような、また初期の電子音楽のような奇妙な響きを発する。あるいは、それはもしかしたら彼の声だったのかもしれない。演奏を終えると少年たちは外に出て、大木のそばで(その塔には意外なほど広い庭がついていた)走り回って遊んだ。私はさっきの音を思い出して、どれもとても良い演奏だったから、あの曲はもう彼らのものになったのだと、なにか誰かの忘れものを届け終えたときのような安堵を覚えた。

 

 

不良の先輩2人と一緒にバイクで山道を走っている。

彼らは余裕をもってスピードを保ったまま複雑なカーブを曲がることができるが、慣れない私は置いていかれないように動きを真似るのと、事故の恐怖心をふり払おうとするのに精一杯で、景色を楽しむような状態になかった。

先輩たちは小さな池のあるひらけた場所にバイクを停めて、バッグからクラブを出しゴルフをはじめた。今まで知らなかったが、昔からゴルフは不良の隠れた嗜みとして文化的に定着しているらしい。自分も倣ってアイアンで近くの小石を池に向かってスイングしてみるけれど、それは運転と同じように、打つたびに狙いとは少しずれた軌道を描く。しかし続けるうちに少しずつコツをつかめてきたようだった。

私は両方の手首をひっつけて、手のひらを開いて30度ほどの角度をつくり「これくらいはできるみたいです」と言った。

先輩が首をひねり返事をしないので、この角度は自分のショットの確実性を示すもので、この内にだいたい収められるようになったんです、と説明すると2人は納得して、いずれ手を合わせるくらい狭められたらいいなと励ましてくれた。

 

我々はその山で解散したはずだったのだけれど、1人の先輩はつけてきたようで、私が家のドアを開けるとなにも言わず、それが当然であるかのように部屋にあがりこんだ。

彼はMMAをやっていて試合にも出ている、どころかその筋の有名人であるらしく、すらりと筋肉質な体をして、精悍な顔に付いた落ち窪んだ野生的な目が、部屋の隅々までみようとよく動く。そしてすこし身をかがめて歩き、小さな声でゆっくりと話す。彼のもつ体の強さ、内側にある攻撃性と所作の穏やかさがせめぎ合っているようで、声が静かであるほど私は怖気付いてしまうが、しかしそれを表に出してはいけないと心の中で言った。先輩はおそらく普通に話せる友だちを探していて、私はその期待に応えたいと思ったからだった。

 

先輩が壁の赤いスイッチを押すと──そんなものがあるとは知らなかったのだけど──部屋が暗くなり、どこからともなく古風なピアノ曲が流れてきた。それに合わせるように先輩は、ボソボソと、自作の物語を朗読しはじめた。

それは大半のひとは5分も聞けば内容を追うのがバカバカしくなるような、あまりにも脈絡に欠けたストーリーだった。主役はいつの間にか入れかわるし、季節も喋っているうちに夏から春に戻っているし、心情描写が事実と混じりあって現実の土台がどこにあるのかわからない。全てが混乱したままだらだらと話は続くが、先輩の口調は自信に満ちていた。蛇行するバイクにくらいつくように、私は筋を見失わないよう意識を集中させる。

それはたとえば、「テナクロス」という名の、海底に住む、ウミウシに似た生物の物語だった。

テナクロスは食事時以外ほとんど動かず、岩の影に隠れるようにして暮らしている。かれらは環境に適応するために、近くの生き物の特徴をコピーする術を身につけた。その能力のおかげで通常の生物にくらべて短期間に姿をかえるために、時代によってテナクロスは有毒だったり無毒になったり、しかし無毒であることが人間の乱獲を招いたり、また肉食から草食へと、全くべつな形態をみせるのだと語られる。

私はそれを聞いて、このストーリーは先輩自身の過去があらわれているものなのだろうと思った。というか、おそらく語りの多くは内面にある問題の告白になっているのだ。だとすれば、打ち明け話を聞くときは真摯にならないといけない。

先輩は私が相槌をうつのに満足して、いくらでも話を続ける。時計は午後3時を指しているけど、もしかしたら1日中いるつもりなんですか、と尋ねることはできない。これはいわゆる「捕まってしまった」状態だなと観念したが、先輩は唐突に話をやめて、本棚の本をじっと眺め、なにか考えこんだ様子になった。

「本はなんでもお貸しするんで持っていってくださいね」と私はいった。

「うん。今日はこのくらいにしようか。あと18章残ってるし」

先輩は大きな目をこちらに向けて、口だけで笑った。

あと、18章あるって?つまり、少なくとも18日はここに通う気なんだろうか。なんだか困ったことになった気がする。でもまあ、考えてみればそれで何かを失うわけではないし、これからちょっとした楽しみができたんだと前向きに考えればいいとも思えた。

いつの間にか、ずっと刀の鞘に手をかけたままでいるような、彼のひりひりした部分が消えているように感じたけれど、それは単に、自分が先輩の視線に慣れたからなのかもしれなかった。

 

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大きなホテルに閉じ込められている。

このホテルはカードキーを使って外に出る仕組みになっているが、私はそれを持っていない。ということは、どうも許可を得ず忍びこんでしまったらしい。

こうなればもう、誰かがガラスのドアを開けたのに合わせて、気づかれないように脱出するしかないかもしれないと思った。身をかがめたりせず、むしろ堂々としている方が怪しまれないはずだろう、と機を窺い、一組の家族連れが出ようとするときに、私は彼らの一族であるかのように後を歩いて、脱出に成功した。

家族の父親はショッピングカートを押して車まで運んでいった。どうもここはホテルではなくスーパーだったようだ。建物をあらためて見ると、金色の手すりが、手の届かないほど、壁のように高く出口と入り口のあいだを遮っている。全体に高級感を出そうとした結果ものものしさばかり伝わってくる造りで、好きになれない外観だと思った。私はそこから出られた解放感をあらためて噛みしめた。

 

家に帰ろうと歩いているうちに、いつの間にか、湿っぽく暗いトンネルの中に入り込んでいた。どこに繋がっているのかもわからないので不安になるが、前をあるく集団が楽しそうに会話しているのですこし気が軽くなった。

彼らは最近買ってよかった飲み物について情報交換している。これを飲んだら睡眠の質があがったとか、あれはドレッシングに混ぜて使えるとか、目がすっきりするだとか、それぞれの特徴が口々にあげられる。自分はそれを覚えておきたいと思うけど、商品名が「のあ」とか「あわ」とか「うゆ」とか、やわらかい発音の2文字ばかりなものだから頭の中でごっちゃになってしまう。ひとりの男は、それらの効き目を自分でためして、よかった飲み物を飼っている鳥に飲ませるのだという。その鳥はもう絶滅することが決まっている種の、最後の一羽らしい。

「できるだけ長生きさせてあげたいんだよ。昔の仲間のためにも」と彼はいった。

女性がひとり布団に横たわり、薄目でこちらを見ている。その側であぐらをかいて座る私は、細い棒を右手に握っている。棒の先には茶色く愛想ない紙風船がついていて、私は手首を返し、それを彼女の体の上で左右に往復させる。ゆっくりと、うちわを扇ぐように。猫と遊ぶときのように。しかし相手はこれといった反応をみせないし、それがなんの役にたつ運動なのかわからない。もしかしたら自分はこの光景について、なにか芸術的な、あるいは儀礼的な意味を汲みとってくれる他者を期待しているのかもしれない。しかし同時にそんな人はまわりに居ないことを知っている。

「もう眠いよ。寝るから終わりにしようか」と彼女は言って、プラグをつかんでコンセントから引き抜いた。コードは私の持っている棒と繋がっていて、先の紙風船はちいさくしぼんだ。それでもう自分の役目は終わったのだと思って立ち上がると、そこは四方を背の高い本棚で囲まれた、図書館のような部屋だった。高いところにある将棋の雑誌を手にとってみた。冒頭に棋士の日常を追いかけた写真が並び、いくらページをめくっても図面は現れない。ひとりの若手棋士が、しゃもじを手にこちらを見つめる写真が目にとまって、じっとそれを眺めてみるうちに、どうも彼の黒目の輪郭がはっきりせず滲んでいることに気がついた。雑に塗装された人形みたいに。加えてサイズも少し大き過ぎるようだ。もし撮影のミスでこうなったのでなければ、このひとの感情を読みとられにくい目は、きっと棋士としての強味にもなるのだろうと思った。

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フローリングの床に、ぽっかりとマンホールほどの穴が空いている。垂れたロープを握って降りると、下の部屋では、飼い猫のたまちゃんが箪笥に乗って毛繕いしていた。たまちゃんは私に気づいた様子で少しのあいだ視線を合わせ、それから目を細めてうしろをみた。

たまちゃんの背後にはもう1匹猫が座っいた。2匹はおたがい鼻を合わせたり、頬を擦りあったりしてじゃれている。その猫は全体のサイズは標準的なのだけれど、たまちゃんの倍ほど顔が大きく、口は広く割れて、中からのぞく牙は鋭い。毛は黒と黄の縞模様。このような要素を合わせて考えるとこの動物は猫ではなく、虎のこどもと判断するのが妥当なように思われた。

私はすぐにたまちゃんを抱き上げ、ロープをつたって上の部屋に戻り、ちゃぶ台をさかさに置いて穴を塞いだ。

テレビから「ピンクのパンを咥えた虎が目撃されました」とアナウンサーの声が流れた。そういえば、あの虎の口はすこしピンクがかっていたような気がする。なるほど、やはりいま話題になっている虎が、さっきみた虎のような動物なのだ。

こういう時はおそらく警察に連絡するべきなのだろうけど、家のなかは散らかっているし埃っぽいし、少しは掃除してからにしようと思った。

しかし思い出してみれば、あの虎は優しい性格をしているようにみえた。もちろん安全に気をつけなくてはならないけど。でも確かにあの生き物はたまちゃんに愛情を示していたし、自分にも攻撃するそぶりはなかった。まあ、とにもかくにも虎の子は部屋に閉じ込めたのだから、まずは一呼吸おいて誰かに相談したい。判断をいそいで騒ぎになって、あの子が殺されてしまうのは気の毒だし、それに、うまくやればあの小さな虎を飼っていけないとも限らないではないか。可能性をいくつか広げ、私は頭のなかの混乱を宥めようとした。

 

家を出て走るうちに、私はいつの間にか暖炉のあるログハウスに迷いこんでいた。

そこでは同窓会が開かれていて、自分もその一員らしいのだけれど、はっきり見覚えのあるのはひとりの女性(アイさん)しかいなかった。けれども人びと全体には懐かしさを感じた。

彼らはどことなく白人の血が入った顔立ちをして、ファッションや建物からも90年代あたりの学園もの海外ドラマをみてるような気分になったが、交わされる言葉は日本語だった。

紫色のネルシャツを着た男性が愛想よく私に話しかけてきた。その男はウディアレンに似た顔立ちで、背中を丸めてよくしゃべる。思考の速さに口が追いついていないタイプで、つんのめりながらまとまった考えを広げようと精を出す。かれの知性と不器用さが一体になっているところに私は好感を持った。

そこで思いきって先ほど見たものを打ち明けたところ、彼はそれを大声で場に響かせ、一同こちらに注目した。

「どうして虎がうちに来たのかはわからないけど、とにかく今は鍵をしているし、万が一にも外に出るようなことはないから安心してくれていい」と私は弁明するようにいった。

「よかったよ、話してくれて。虎のことがあったから久々にみんなと会えたんだから」とアイさんがいった。

思わず、じゃあうちに虎を見に来ない?とみんなを誘いそうになったけれど、それはもう少し飼育について──私はすでに虎を飼おうと決めていた──状況が整理されてからの話だろうと思った。私はウディアレンに似た彼を、まず問題解決するにあたって相棒にできないかと思い、俺と一緒に作戦を立てて欲しいんだけどと提案した。

すると彼はキッチンの方にひっこみ、しばらくしてから手に皿を持って帰ってきた。

皿の上には、食パン4枚がひとつに組み立てられたパンが乗っていた。

「これがぼくの顔なんだよ」と彼は言った。「少しずつずれて、今はだいたいこんな調子。だから、虎みたいに猛々しいやつの面倒をみるには、残念なことに、ぼくの体は弱すぎる。わかってくれるかな」

そのパンの形は、むかし博物館でみた手裏剣、あるいは花びらの大きな花を思わせた。いびつに見えてしっかり調和しているという意味ではあるけど、しかしどちらの喩えも言うべきではないと思った。

「顔は痛むの?」とアイさんが訊いた。

「それほどじゃないけど。でも時々ダメになりそうに思えてくる」と彼は答えた。

 

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