フローリングの床に、ぽっかりとマンホールほどの穴が空いている。垂れたロープを握って降りると、下の部屋では、飼い猫のたまちゃんが箪笥に乗って毛繕いしていた。たまちゃんは私に気づいた様子で少しのあいだ視線を合わせ、それから目を細めてうしろをみた。

たまちゃんの背後にはもう1匹猫が座っいた。2匹はおたがい鼻を合わせたり、頬を擦りあったりしてじゃれている。その猫は全体のサイズは標準的なのだけれど、たまちゃんの倍ほど顔が大きく、口は広く割れて、中からのぞく牙は鋭い。毛は黒と黄の縞模様。このような要素を合わせて考えるとこの動物は猫ではなく、虎のこどもと判断するのが妥当なように思われた。

私はすぐにたまちゃんを抱き上げ、ロープをつたって上の部屋に戻り、ちゃぶ台をさかさに置いて穴を塞いだ。

テレビから「ピンクのパンを咥えた虎が目撃されました」とアナウンサーの声が流れた。そういえば、あの虎の口はすこしピンクがかっていたような気がする。なるほど、やはりいま話題になっている虎が、さっきみた虎のような動物なのだ。

こういう時はおそらく警察に連絡するべきなのだろうけど、家のなかは散らかっているし埃っぽいし、少しは掃除してからにしようと思った。

しかし思い出してみれば、あの虎は優しい性格をしているようにみえた。もちろん安全に気をつけなくてはならないけど。でも確かにあの生き物はたまちゃんに愛情を示していたし、自分にも攻撃するそぶりはなかった。まあ、とにもかくにも虎の子は部屋に閉じ込めたのだから、まずは一呼吸おいて誰かに相談したい。判断をいそいで騒ぎになって、あの子が殺されてしまうのは気の毒だし、それに、うまくやればあの小さな虎を飼っていけないとも限らないではないか。可能性をいくつか広げ、私は頭のなかの混乱を宥めようとした。

 

家を出て走るうちに、私はいつの間にか暖炉のあるログハウスに迷いこんでいた。

そこでは同窓会が開かれていて、自分もその一員らしいのだけれど、はっきり見覚えのあるのはひとりの女性(アイさん)しかいなかった。けれども人びと全体には懐かしさを感じた。

彼らはどことなく白人の血が入った顔立ちをして、ファッションや建物からも90年代あたりの学園もの海外ドラマをみてるような気分になったが、交わされる言葉は日本語だった。

紫色のネルシャツを着た男性が愛想よく私に話しかけてきた。その男はウディアレンに似た顔立ちで、背中を丸めてよくしゃべる。思考の速さに口が追いついていないタイプで、つんのめりながらまとまった考えを広げようと精を出す。かれの知性と不器用さが一体になっているところに私は好感を持った。

そこで思いきって先ほど見たものを打ち明けたところ、彼はそれを大声で場に響かせ、一同こちらに注目した。

「どうして虎がうちに来たのかはわからないけど、とにかく今は鍵をしているし、万が一にも外に出るようなことはないから安心してくれていい」と私は弁明するようにいった。

「よかったよ、話してくれて。虎のことがあったから久々にみんなと会えたんだから」とアイさんがいった。

思わず、じゃあうちに虎を見に来ない?とみんなを誘いそうになったけれど、それはもう少し飼育について──私はすでに虎を飼おうと決めていた──状況が整理されてからの話だろうと思った。私はウディアレンに似た彼を、まず問題解決するにあたって相棒にできないかと思い、俺と一緒に作戦を立てて欲しいんだけどと提案した。

すると彼はキッチンの方にひっこみ、しばらくしてから手に皿を持って帰ってきた。

皿の上には、食パン4枚がひとつに組み立てられたパンが乗っていた。

「これがぼくの顔なんだよ」と彼は言った。「少しずつずれて、今はだいたいこんな調子。だから、虎みたいに猛々しいやつの面倒をみるには、残念なことに、ぼくの体は弱すぎる。わかってくれるかな」

そのパンの形は、むかし博物館でみた手裏剣、あるいは花びらの大きな花を思わせた。いびつに見えてしっかり調和しているという意味ではあるけど、しかしどちらの喩えも言うべきではないと思った。

「顔は痛むの?」とアイさんが訊いた。

「それほどじゃないけど。でも時々ダメになりそうに思えてくる」と彼は答えた。

 

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