春の渓流に足を浸して、父と兄が釣りをしている。他にも川の中に釣り人が5人ほどちらほらとみえて、河原では老夫婦がシートをひろげてお弁当をつまむ、穏やかな景色が広がっていた。遠く上流には若者がかたまってバーベキューか何かをしているようだがはっきりとは見えない。

その群れが何やらざわざわと騒ぎ始めた、と思ったら、彼らの頭上に巨大な影が現れた。雨雲かとおもわれたその黒は、よくみれば馬の形をしている。灰色の空へ墨汁を垂らしたように輪郭のぼやけたあれが、じっさいに馬なのだとしたら、サイズは象の100倍はあるだろう。その動物は崖の上でしゃがみ、きわめてゆっくりと、力強く地面を蹴って、ふわりと優雅にジャンプする、とそのまま向こうの崖へ跳びうつり、水に触れることなく渓谷を渡り切ってしまった。

それから馬はこちらに向けて走って、ちょうど私のいるところの対岸に立ち止まった。体は遠くで見たときより縮小してはいるけれど、そいつはこの世のものと思えない威厳を纏い、風を受けたたてがみが、かたちを持たない炎のように柔らかく靡いていた。なんて綺麗な──これほどの馬は、きっと人よりも優れた知性を持っているにちがいないと私は思った。父と兄に知らせてやりたくなり、「馬、馬!すごいのが来た」と叫んだが、2人とも釣りに夢中で気づく様子がない。その声に驚いたのかどうか、黒い馬は踵を返して森の中へ消えていった。

あの生き物を見逃したなんてもったいない。しかしそれはそうと、この話を父と兄は信じてくれるだろうか。自分にはとても今みた馬の神々しさを言いあらわす自信はない。言葉では足りないものを見てしまったのだと思った。

兄は釣り竿を肩に乗せて岸に帰ってきた。彼のよこには黄色い動物がならんで歩いていた。それはこちらへ駆け寄って、黒目がちな目を細め、頭をさげて、私の足先に鼻をすり寄せる。甘えた犬にそうするように耳のうしろを撫でてやると、動物は勢いよく右手に噛みついた。刺されるというよりは万力で締められるような危険な痛みを感じ、あわててとびのいて全体を見れば、それは犬でも猫でもなくキリンだった。私の腰のあたりまでしか丈がないそのキリンは、異様に首が太くてずんぐりしている。これはおそらく生まれたばかりの赤ん坊で、だから遊ぶときの加減をまだ学んでないのだろう。キリンは何度もくりかえし私の手を噛みたがる。私はなんとか歯をかわしながら宥めようとするがままならない。それをみて「動物園からかな」と兄が微笑んでいった。

この川の上流には動物園があって、そこからしばしば動物が脱走してくるのが、あたりでは一種の名物になっているらしい。そう言われてみればキリンの子と触れあえる機会なんてめったとあるものではない。とはいえ、これいじょう手をいためるのは避けたいし、どうあやしていいかもわからない。もとの場所に帰ってくれないと困るのだが。しかし動物園に戻るまでには道路を渡らないといけない。そこには車やバイクが走っているはずだ。この利かん気の強そうなキリンが、自分の寝ぐらまで事故に遭わず帰れるだろうか、心許ないから、送りとどける人が必要ではないかと思った。早くしないと。そろそろ太陽は山の向こうに沈もうとしている。

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