夜道を歩いているとすこし先に、フエキ糊マスコットキャラクター、フエキくんの姿が見えた。電灯に照らされた黄色い顔、赤い帽子──工事現場を思わせる配色の中にある大きな眼球の白目部分は、くっきりキラキラした輪をつくっているけれど、銀にふちどられた黒目のほうは光を反射せず、まるで実体を感じさせない。突起しているはずなのに、見つめるほど深い穴を覗くときにおこる、くらくらした気分がやって来る、異様な目。顔の筋肉は強張りわずかに震えて、みかんの皮によく似たその肌にもしっかり神経が通っていることがわかる。

たしかに生々しい存在感がある。そして愛嬌のあるフォルムだ。とはいえ、本当に、この黄色くて丸っこい生き物は、我々のもつ秩序が通じる者なんだろうか。そう疑ううち心のなかにおそれが生まれ、思わず私はきた道を引き返して走ろうとした。が、足はもつれてのろのろとしか動かない。

それをみたフエキくんが追いかけてくる。彼のかぶっている赤い帽子はみるみる熱をもち、空焚きしたフライパンのように煙を立てている。あんなのに触れたらきっと火傷してしまうだろう。ただ事ではない。そこで逃げながら心に浮かんだのは、フエキくんが怒る理由は、彼がいつも人々から子供あつかいされている点にあるのではないかということだった。

だからおそらく、私はフエキくんを怖がるべきではなかったのだと思った。最初から堂々と彼のほうへ歩き、落ちついて、すれ違うときは大人同士がそうするように柔らかく会釈くらいしていれば、彼としても礼儀ただしく応じる準備があったはずなのに。その異形性に怯んだばかりに、フエキくんがもともと抱えていた社会への鬱積した怒りはいまや私一点に注がれようとしている。

思い切ってふりかえってみる。フエキくんの体は、黒い服を着ているからなのか、そもそも存在しないからなのか、どこにもみえない。ただ大きな頭だけが怨念に支配された火の玉のように揺れながら近づいてくる。

ところが、彼はいつまで経ってもこちらに到達しないのだった。じっさいの距離は変わらないにも拘らず、近づいてくる状態そのものが、疑いようなく、じわじわと近づいてくる──その奇妙に矛盾した時間だけが引き延ばされて、私を捕える。君はこの圧迫を一晩かけて、じっくり味合わなくてはいけないのだとでもいうように。

陶芸教室で知人たちが皿を作っている。私はここに1度来たことがあり、いい場所だからといってみんなを誘って今こうして集まっているらしい。「らしい」というのは、すっかり教室での記憶を失ってしまったからで、あまりその時のことを質問されたら困るなという気持ちがあった。

背の高い男(知り合いのはずだが顔に見覚えがない)から「お前もつくったら」と声をかけられた。まわりをみるとみんなすでに作業を終え、つぎつぎ作品が窯へ運ばれていっている状況だった。これらはぜんぶ一緒に焼くのだからのんびりしている暇はなさそうだ。短時間でしっかり作るは難しいだろう。かといって、せっかく来たのに何もしないで帰るのもどうかと思う。私は土をこね、丸煎餅のような形に伸ばし「これはね、餃子の皮」といって、それを窯に入れた。すると「餃子ならくるまんとあかんがな」と、我々の先生である陶芸家の声がした。

かるく場を凌ごうとしたことを見抜かれたようで、後ろめたさを感じた私は、彼のいう通りに「餃子の皮」を取り出し、折りたたみ整形することに決め、それならもっと、きちんと餃子らしく、なにかタネを包み入れるべきなんじゃないかと思った。床に目を落とすと皮の剥かれていないニンニクがひとかけ転がっていたから、「これを中に入れていいですか」と尋ねると、陶芸家先生は頷いたあと、鉢植えから長く伸びる、なんと呼んでいいかわからない柔らかそうな植物の葉を片手でひとつ摘んで「これも具にしてみよか」といって私に渡した。ニンニクと青菜があれば、まあ餃子としてはまともなものだ。先生は再び葉をつまみ、小さくねじりとり、こちらに置く。それを何度もくり返す。まるで2人で農作業でもしているかのように。生地の上は、もはや包めるかどうかも判らないくらいこんもりと葉の緑が積っている。

 

小学生時代の友達が家にやって来た。めったとない機会だからゆっくり話をしたかったが、彼は出したお茶に手をつけず「リングの仕事があるから」とだけいって早々に席を立った。玄関で靴をはいているときに「そうだお前、電池を持っていないか」と尋ねてくるので、たまたまポケットに入っていた単三電池を渡すと、友達はそれをニーガードのなかにセット(それは弾帯のように片手で装填できるデザインだった)してからドアの方を向き、体をひねり、空中に膝蹴りを放った。どうやらそのニーガードには電気的に蹴りの威力を増強させる機能があるらしい。

友達は効果を確かめるようにシャドウをつづけたが、しばらくして動きを止め「ちょっと足りない」とつぶやき、電池を外し、私に返した。おそらくもっと高価な電池だったら素早くつよい収縮がおこり、角度のついた強いキックが打てるのだろう。けれど残念ながら、私はほかに電池を持っていない。

いつの間にか友達はさっきまで来ていた服を脱いでプロレスラーのような黒いショートタイツ姿になっている。彼に何があったのかはわからない。そもそもスポーツが不得意で格闘技を好むタイプではないと思っていたが、でもそれはたんに子供の自分が持っていたひとつの印象に過ぎない。ただ眉間に深々と刻まれた一本の皺が、会わなかった時間の長さを感じさせる。電池なしでも素晴らしい試合ができるように、と願いを込めて、私は彼の背中をポンとひとつ叩いた。

 

 

市議会の傍聴席で質疑応答を聞いている。議論のテーマは、テンテンヤンと呼ばれる生物が森を荒らしている状況をいかに改善するかについて。野党議員は、広範囲に罠を仕掛けるため自衛隊の支援を求めるべきだと主張する。それを受けた市長は野生生物保護の観点から捕獲に乗り気ではない様子で、現状維持の立場を崩さない。

討論が平行線を辿るなか私は奇妙なことに気がついた。というのは、どうも誰ひとりテンテンヤンの姿を見た者がいないようなのだ。目撃談が示されないままに被害の実態は情緒的な表現に任され、どこがどう荒らされたのかという肝心の中身が欠けている。いるかいないかわからない妖怪のような生物を捕まえるために予算を割くことはできない、という市長の見解はもっともなように思えたが、野党の議員は「つまり一番の問題はテンテンヤンの所在がつかめない点にあり、だからこそ捕獲して確認しないといけないのです」と、アクロバティックな論理を展開し対抗しようとした。

彼はその根拠として「ヤーヘンのリンパ説」をあげる。リンパ説とは、リンパの流れから精神の実在を証明しようとする、19世紀前半一時的に流行した学説なのだが、それはいまの視点からみるなら疑似科学と呼ぶほかない遺物であるし、100歩譲って仮にリンパ説がどこかで一定の支持を得ていることを認めるとしても、それがテンテンヤン問題解決への道といかに関わるのか、誰にもわからない。煙にまかれる快楽に弱いひとしか耳を傾けないタイプの演説が無意味に引き延ばされていった。

破綻した質疑をうけ、市長は沈黙し、全く動きを止めてしまった。遠くをみる顔から、彼は自分がリンパ説を知らないことを隠したいのだと私にはわかる。そんなものは全く知らないでいいんだから、知らないと言えばいいだけなのに、少しでも弱みを見せれば綻びが広がってしまうのではないかと身構える市長にはそれができない。

市長は背筋を伸ばしたかたちで硬直し、体のバランスをとることをやめた。必然的にそのままゆっくりと後ろ向きに倒れることになったが、その姿はマジックインキそっくりだった。そっくり、というより、比喩を超えて、ほとんどそのものに変身したといった方が良いかもしれない。慣性のまま横向きに転がる自然な運動は、意志なき無機物にしかみえない。市長にこんな裏芸があったとは──。場に驚きがひろがり、人びとはたいへんな奇術をみたぞと携帯で知り合いに自慢をはじめる。話題をかぎつけた市民達がかけつけ、間もなく議場は群衆でいっぱいになった。テンテンヤンとヤーヘンの話はもはや傍に追いやられたようで、つまり芸の目論見は達成されたわけだ。黒いスーツの市長は、今度は落ち着いた様子で立ち上がった。それから、はにかんだ笑みをつくり、再びマジックインキに擬態して壇上から転げてみせた。

 

漫才師と商店街巡りのロケをしている。一人の芸人は背が高く、もう一人はかなり小柄でうしろ姿は小学生のように見える。

大通りから覗く道幅の狭いアーケード商店街はシャッターが目立つ。背の高いほうの芸人が、歩きながらそれをさして「こんなんだと、このへんは店の中まで暗そうですよね」といった。おそらくボケたつもりなのだろうけど、相方が何も言わないのでたんに失礼な言葉を放ったようでしかなく、ここは自分がフォローすべきなのか──と思ったがやめておいた。その後も彼はしつこく商店街に活気が欠けていることを茶化そうとしたが、それを冗談として扱うにはあまりにも、その街は本当に暗く寂れすぎていた。

一行はこれからどこかで食レポをする予定のようで、芸人コンビがちかくの店に入った。私とカメラマンも続く。自動ドアを通ってすぐのテーブルにお惣菜が並んでいる。内容は割烹にみえるが、店内はファーストフード店としか思えない構造で、広いスペースにプラスチック製の机と椅子が並べられ、接客はマニュアルを守って大きな声を響かせるタイプのものだった。チェーン店なのかもしれない。せっかくの旅行なんだからもう少し店を吟味すればいいのにと思ったけれど、もう入ってしまったのだから仕方ない。

カウンターに置かれたメニューの中心には太い字で「京理」と書かれている。きょうり、とは、京料理をもとにこの街で独自に発展した郷土料理全般を意味する、京料理と区別するためにつくられた言葉・ジャンルらしい。そう言われれば、たしかに素材の組み合わせや煮物の切り方など、独特で見慣れないものが多いようだった。

テーブルに座ると、そこにはすでに暖かい料理が待っている。使い捨ての容器に、雑炊のようなものが2種類。スプーンは金属製。食べてみると、塩気や旨味が感じられず、ただ水っぽい粥の食感のなかに魚の香りだけが広がっていった。味のないガムを口にいれたようだが、飲み込まなくてはならない分それより厄介だ。家庭でこれを出されたら、率直な子供の多くは作った親に文句をいうだろう。

「こういう料理は食べたことがないな。面白い味ですね」と、私はカメラの向こうの視聴者に感想を伝えた。じっさいはなんの味もしない。職務としては嘘でも褒めるべきなのかもしれない。しかしどうしてもおいしいとは言いたくないと、私は要らない意地に縛られていた。

そのとき「ね。おいしいよね」と背の高い芸人が京理をほおばりながらいった。彼の顔にはまことに満足している人だけがつくることのできるゆるみがあって、信じられないことに、この料理を気にいった様子なのだった。自分にいえなかった言葉をつかってくれた男にたいして私は初めて感謝の念をもった。いや、驚くことはないのかもしれない。人の好みはそれぞれなのだから。

背の低いほうの芸人が遅れてやってきた。彼は京理を食べようとしたが、ついてきたスプーンがティースプーンだったので、それを持ってカウンターへ交換してもらいに席を立った。ひょこひょこと肩を揺らして歩く仕草に愛嬌がある。

すると、店員が数人「小さい人だから、これで良いかと思ってー」と口を揃えていった。

ティースプーンで良いわけないでしょうが!」と芸人が返すと、店全体が笑いに包まれた。なるほど、この一連のやり取りは彼の持ちネタで、お約束は周知されているというわけだ。何も知らない私は少し疎外感を持ったけれど、それより気になるのは、この小さな芸人が粥を食べてどのような反応をみせるかだった。

 

 

部屋のテレビで怪獣映画をみている。それは大勢のひとびとが団結して敵に立ち向かう物語、ではなく、ある家族が怪獣の暴力から逃れるため移動する『怒りの葡萄』のようなロードムービーで、そこでは一家が電車に乗るたびにライヒの曲が流れる決まりのようだった。電車が動きだすとき、単線だったはずの線路は、3本4本と左右へ、不思議な生き物のように増殖する。

壊滅的な被害に見舞われた街を、家族を乗せた電車は進む。息子はほとんど無表情に被災地を眺め、フレームのなか現れては消える住民たちもひとりとしてパニックを起こしていない。淡々として、特撮映画としてはきわめて落ちついたトーンの演出効果をさらに上げるのが、時々に挟まれる女性のナレーションだった。そのささやき声は観念的な領域にとどまる言葉ばかりを並べて空中に漂うようだったけれど、たんに夢想を広げているわけではなく、気をつけて具体性から遠ざかろうとする神経質なところが含まれていた。謎は謎のままつぎの謎へ手渡され、それが海の話であること以外、彼女が何を言いたがっているのか自分にはよくわからない。ひとつ確かなのは、この語り部は映画の時間が終わった未来にいて、すでに過ぎ去った厄災をふり返りながら呟いていることだった。だからこの声はたいへん悲劇的な映画のなかでさえ、今このときの切迫感をうちけすように聴こえるのだろう。

ラストシーン、家族は難を逃れて互いに喜び合い、ナレーションの声が物語を締めようとしている。

「海のいいところはどこなのでしょうね」

画面には凪いだ太平洋が映っている。ついに1度も戦闘シーンはなかった。

エンドロールが流れるのを見ながら、私は彼女の投げた問いについて考えてみる。海のいいところ、とは。そして、目が覚めるか覚めないかのタイミングで、そうか、ここで語られようとした海の美点は、我々を隔てる広さにあるわけだ、とひとまず答えを出した。それ自体は決してはっきりとした道筋を示すことのない、人と人の距離ばかりつくる空白をいかに肯定的にとらえられるのか──きっとあの映画全体にはずっとそのテーマが底に流れていたのだと思った。

 

部屋の掃除をしていて、棚の裏に挟まっている青い封筒を2つ見つけた。これは10年以上前に契約していたTSUTAYA定額宅配レンタルの封筒だ、と気づき、手にとってみると、中にそれぞれ3枚ほどのCDかDVDかが入っている重みを感じる。少なくとも10年だ。いったいどれほど延滞料が嵩んでいるのかと、想像するのが恐ろしい。

普通に考るならすぐ問い合わせすべきなのだろうけど。しかしこの長期間なにも連絡がなかったのだからTSUTAYAが私を忘れている可能性は大いにある。もしそうだとしたら、こちらとしても封筒を見なかったことにしてやり過ごせば問題ないのかも知れない、けれどもそれは同時に、いつか相手が思い出してしまったときに払う更なるツケを溜め続けることであるから、どちらを選ぼうが未来が暗いことに変わりない。こんな年の瀬のタイミングで厄介なものを掘り出したくなかったと思う。

インターホンが鳴った。戸を開けると、配達員が白い箱をもって立っていた。受け取って開けてみれば、中には大きなバウムクーヘンがひとつ。それに手紙が添えられている。誰が書いたのかはわからないが文面によれば、このバウムクーヘンは私の伯父さんが変身したものであり、我々としては処置に困るので、親族、つまり私の元へ送ることにしたのだという。人間をバウムクーヘンに変身させるには、バウムクーヘンを作るさいに使う「ゴシゴシする機械」でゴシゴシするだけで済むらしい。