部屋のテレビで怪獣映画をみている。それは大勢のひとびとが団結して敵に立ち向かう物語、ではなく、ある家族が怪獣の暴力から逃れるため移動する『怒りの葡萄』のようなロードムービーで、そこでは一家が電車に乗るたびにライヒの曲が流れる決まりのようだった。電車が動きだすとき、単線だったはずの線路は、3本4本と左右へ、不思議な生き物のように増殖する。

壊滅的な被害に見舞われた街を、家族を乗せた電車は進む。息子はほとんど無表情に被災地を眺め、フレームのなか現れては消える住民たちもひとりとしてパニックを起こしていない。淡々として、特撮映画としてはきわめて落ちついたトーンの演出効果をさらに上げるのが、時々に挟まれる女性のナレーションだった。そのささやき声は観念的な領域にとどまる言葉ばかりを並べて空中に漂うようだったけれど、たんに夢想を広げているわけではなく、気をつけて具体性から遠ざかろうとする神経質なところが含まれていた。謎は謎のままつぎの謎へ手渡され、それが海の話であること以外、彼女が何を言いたがっているのか自分にはよくわからない。ひとつ確かなのは、この語り部は映画の時間が終わった未来にいて、すでに過ぎ去った厄災をふり返りながら呟いていることだった。だからこの声はたいへん悲劇的な映画のなかでさえ、今このときの切迫感をうちけすように聴こえるのだろう。

ラストシーン、家族は難を逃れて互いに喜び合い、ナレーションの声が物語を締めようとしている。

「海のいいところはどこなのでしょうね」

画面には凪いだ太平洋が映っている。ついに1度も戦闘シーンはなかった。

エンドロールが流れるのを見ながら、私は彼女の投げた問いについて考えてみる。海のいいところ、とは。そして、目が覚めるか覚めないかのタイミングで、そうか、ここで語られようとした海の美点は、我々を隔てる広さにあるわけだ、とひとまず答えを出した。それ自体は決してはっきりとした道筋を示すことのない、人と人の距離ばかりつくる空白をいかに肯定的にとらえられるのか──きっとあの映画全体にはずっとそのテーマが底に流れていたのだと思った。