漫才師と商店街巡りのロケをしている。一人の芸人は背が高く、もう一人はかなり小柄でうしろ姿は小学生のように見える。

大通りから覗く道幅の狭いアーケード商店街はシャッターが目立つ。背の高いほうの芸人が、歩きながらそれをさして「こんなんだと、このへんは店の中まで暗そうですよね」といった。おそらくボケたつもりなのだろうけど、相方が何も言わないのでたんに失礼な言葉を放ったようでしかなく、ここは自分がフォローすべきなのか──と思ったがやめておいた。その後も彼はしつこく商店街に活気が欠けていることを茶化そうとしたが、それを冗談として扱うにはあまりにも、その街は本当に暗く寂れすぎていた。

一行はこれからどこかで食レポをする予定のようで、芸人コンビがちかくの店に入った。私とカメラマンも続く。自動ドアを通ってすぐのテーブルにお惣菜が並んでいる。内容は割烹にみえるが、店内はファーストフード店としか思えない構造で、広いスペースにプラスチック製の机と椅子が並べられ、接客はマニュアルを守って大きな声を響かせるタイプのものだった。チェーン店なのかもしれない。せっかくの旅行なんだからもう少し店を吟味すればいいのにと思ったけれど、もう入ってしまったのだから仕方ない。

カウンターに置かれたメニューの中心には太い字で「京理」と書かれている。きょうり、とは、京料理をもとにこの街で独自に発展した郷土料理全般を意味する、京料理と区別するためにつくられた言葉・ジャンルらしい。そう言われれば、たしかに素材の組み合わせや煮物の切り方など、独特で見慣れないものが多いようだった。

テーブルに座ると、そこにはすでに暖かい料理が待っている。使い捨ての容器に、雑炊のようなものが2種類。スプーンは金属製。食べてみると、塩気や旨味が感じられず、ただ水っぽい粥の食感のなかに魚の香りだけが広がっていった。味のないガムを口にいれたようだが、飲み込まなくてはならない分それより厄介だ。家庭でこれを出されたら、率直な子供の多くは作った親に文句をいうだろう。

「こういう料理は食べたことがないな。面白い味ですね」と、私はカメラの向こうの視聴者に感想を伝えた。じっさいはなんの味もしない。職務としては嘘でも褒めるべきなのかもしれない。しかしどうしてもおいしいとは言いたくないと、私は要らない意地に縛られていた。

そのとき「ね。おいしいよね」と背の高い芸人が京理をほおばりながらいった。彼の顔にはまことに満足している人だけがつくることのできるゆるみがあって、信じられないことに、この料理を気にいった様子なのだった。自分にいえなかった言葉をつかってくれた男にたいして私は初めて感謝の念をもった。いや、驚くことはないのかもしれない。人の好みはそれぞれなのだから。

背の低いほうの芸人が遅れてやってきた。彼は京理を食べようとしたが、ついてきたスプーンがティースプーンだったので、それを持ってカウンターへ交換してもらいに席を立った。ひょこひょこと肩を揺らして歩く仕草に愛嬌がある。

すると、店員が数人「小さい人だから、これで良いかと思ってー」と口を揃えていった。

ティースプーンで良いわけないでしょうが!」と芸人が返すと、店全体が笑いに包まれた。なるほど、この一連のやり取りは彼の持ちネタで、お約束は周知されているというわけだ。何も知らない私は少し疎外感を持ったけれど、それより気になるのは、この小さな芸人が粥を食べてどのような反応をみせるかだった。