猫に誘われて古びた小さなビルに入る。猫を追いかけていると言うよりは、私はその猫の意思と知性を頼って行き場所を決めてもらっている。知らない街でどこへ行っていいかわからない、大人に手を引かれる迷子のような気分だった。

 

猫はビルの窓から、似たような外観のビルへとびうつり、私もそれにつられてジャンプする。どうやら今いる場所は私が10代の頃好きだったIさんが住んでいる部屋らしい。壁にカーテンと見間違えるほど長いスカートが吊るしてある。猫は振り子のように尻尾をふりながらリビングを一周したあと、キッチンに向かい、勝手知った場所であるかのように迷いなく、するっと戸棚の中に入った。棚の中は隣のビルに繋がっているようで、猫はそのまま奥へ奥へと進むが、私は体がつっかえてついて行くことができない。

ひとりになってしまった。はやくこの建物を出なければ、と出口を探していたところに、Iさんが帰宅した。

ぼくは決してストーカーじゃない。ある人に連れられて(と言ったが実際は猫だ)たまたまここに来ただけで、いま帰ろうと思ってた。どうか気を悪くしないで欲しい。とIさんに訴えるが、話ながら自分はおかしなことを言っていて、とても弁明を受け入れてはもらえないだろうと思う。そう考えるほど言葉に熱が入り、余計に我々の温度差は広がって行く。Iさんはコートを着たまま冷めた目線を床に落として、あいまいな相槌をうつ。

これはさっさと出て行った方がいい。が、なぜか私は話を止めることができなくなっていて、むかし君に好意を持っていたんだと告白した。そんなことを言えば、下心をもって忍び込んだんだろうと想像させてますます気味悪がられるに決まっているけれど、このまま別れたら2度と会うことはないから、過去の気持ちを全部話してしまいたいと思ったのだった。

Iさんは驚いた様子もないし、怒りもしない。反応を見せず話を聞き、予防接種の列に並んでいる人のように、はやく話が終わるのを待っている。

Iさんの姿は、私が知っている10代の頃の面影は薄く、別人のように見える。きれいだし魅力的に違いないけど、その顔は意外なほど私の感情を動かさない。少なくとも特別なつながりを望むようなことはない。そのような気持ちはもう持てないのだと思う。なのに私は「君がどのくらい好きだったか」ということを奇妙な義務感によって話し続ける。しかし、そこになんの義務があるんだろう。自分はいったい何を、どこに向かって喋っているんだろう。

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