お知らせ(9年目にして初の)

夢日記をつけていると夢を覚えている率が上がって明晰夢を見やすくなる、とはよく言われる話ですが、私の場合、明晰夢はよくわからないけど、確かに日記をつけるほど記憶が残りやすくなる実感があります。記憶が残りやすいというのは、夢が鮮明になり定着しやすくなる効果も含まれるんですけど、自分にとってより重要なのは「思い出す回路」みたいなものが開拓される事のほうです。というのは夢の中の言葉って覚醒時の言葉(=倫理、論理)はべつなものだから、夢をそのまま書くっていうのはたぶん無理なんですよね。夢の中で夢日記はつけられない。夢はどちらかと言えば「読む」行為なので、起きたらその夢のイメージの一部分をぎゅっとつかんで、もう一度その世界へ入りなおし、さっきの夢を疑似的に追体験し、覚醒時の言葉でそれを読みながら書くことになる。夢日記を書くとその小道みたいなのを通るコツがつかめてきて、だから「よく覚えてる」ってことになるんじゃないか、と最近おもいました。理屈っぽい話ですが。

 

というわけで今年に入ってまた、よく夢を覚えてるサイクルに入ったみたいで更新が増えています。

このブログはまあメモ帳がわりというか、かなり適当なものでして(2年更新してなかったりするし)とくに何かを意気込んではいないんですが、ひとつの方針として、あとあと読み返したときちょっとは面白いと思えるように書こう、とは思ってるんです。他人にどう読まれるのかは予測できないけど、とにかく自分が楽しめるようにすれば、誰かに響くこともひょっとしたらあるんかなと。というわけで、一応みてもらうことを意識しているので、たんに性的だったり暴力的だったりする夢は書かないようにしています。

あと夢って一般的に、他人にするときは短く簡潔なほどいいんでしょうね。奇妙な状況をスケッチしてみせるくらいな感じで。立派な額縁に入れるような絵を描くようにじっくりキャンパスに筆を下ろされても、お前それをどこに飾る気なんだってなるし。だからほんとはTwitterくらいの文字数でいいんだと思います。良い悪いの話なのか知らないけど。

とは思っているんですが、夢にいたる小道散歩に慣れていくほど、みえる景色は増えていって、そうすると文章が長くなっていくんですよね。んで、夢のイメージとイメージのすきまをつなぐ言葉は「覚醒時の言葉」だから、そこには一種の「書き換え」が発生します。つまり、あとから意味や感情を付け足してしまうんですね。最近まで私は、話をなるべくシンプルにするために、書き換えは最小限にしよう、それが正直さだろうし、と考えていたんですが、さっき話したように夢を思い出して書くことは、結局のところ、辿り直して夢とは別な言葉であらわすことで、つまり書き換えはほとんど前提のようなものだから気にすることないんじゃないか、と思ったんですね。むしろ覚醒時における夢の追い方のほうに興味が出てきたというか。

というのが、最近の夢日記が長くなっている理由です(笑)。前に書いた夢の教授の話とか、記憶にあるのは「とても慎重に信頼を得ようとしながら、それが不可能であると知っている、しかしその不可能性を含めて聴衆を説得しようと長々話している」くらいのイメージが残ってるだけで、具体的な言葉はあまり残っていない。だから書き換えなんだけど、まあそれでいいやと、開き直るとああいう感じになりました。

このブログをどんな方が読んでるのかよくわからないですが、アクセスのあれをみると、チェックしてくれてる方が数人いらっしゃるようで、なので文体が変わった理由を説明しようかなと思ったわけでした。でもまた更新途切れるかもませんが(笑)とにかくそういうことで、これからもよろしくお願いします。