学生時代の知人5人ほどが会議室のような場所で私の描いた漫画を読んでいる。あいつ漫画描いてたんだ、へえ意外だね、等と言いながら回し読んでる音がドア越しに聞こえる。評判は上々のようだった。中にひとり、教師のような佇まいをした年配の男性が混ざっている。彼がとりわけ熱心に作品について語り、私はうれしくなって部屋に入ったけれど、そのとたん場が静かになってしまう。みんなどうやら勝手に盗み読んだことを後ろめたく思っているようで、だから私も気づいてないふりをした。漫画がどんなものだったのか気になりテーブルをみるが、それはどこかへ消えてしまっている。

それにしても自分の作品が好意的に読まれるとは思っていなかった。とはいえ、さっきはなんとなく場に褒めるムードができあがっていたから、空気に流されて肯定的な態度をとった人もいたかもしれない。不出来な点の指摘をふくめた率直な評を聞いてみたい、という欲が湧いてきて、ほんとうに自信のあるものをまずは信頼できる友人の1人に読ませてみようと思い、私は自分の部屋に帰ってむかしの作品を探す。が、なかなかみつからない。部屋は現実のサイズの3倍はあり、どこか祖父母の家に似ている。乱雑に積み上げられた雑誌の山ひとつひとつから、洗面台まで、どれだけ念を入れて調べても現れず、もしかしたらこの家には作品なんてない、というかそもそも作ってないのでは、と疑いはじめたとき、2つにおられた白い紙が目に止まり、手に取ってひらくとDVD1枚滑り落ちて足元に転がった。プレイヤーに入れると、上空から客船を撮った映像が流れ出す。思い出した。これは自分が昔脚本を書いた短編映画だ。

 

映画の船は潜水することもできる大型の船で、カメラが映し出す船室内は海水で満たされている。そこでは人工的に大きな泡がつくられつづけ、その泡は客の顔にはりついて呼吸を助ける。人々は水中にも関わらず快適そうで、泳いでるエビをつかんで火で炙る客や、泡の中でタバコをふかしている者もいる。水の中で穏やかに動く人たちには優雅な雰囲気があり、そこにやわらかいストリングスがぴったり寄り添う。なんて素晴らしい導入だろう──と、うっとりしていたが、役者が話し始めたとたん全ては台無しになってしまう。どうも台詞が固くて尻すぼみに終わり、生きた人同士が対話しているように見えないのだ。これは役者の責任ではなく、言葉が一方通行で跳ねていないからなのだと思う。シーンが変わってもこの問題はいつまでも居座って登場人物の内実が立ち現れてこない。原因は明らかに脚本にある。つまり本を書いた私が悪いということだ。

 

役者の1人にはPUFFYの吉村亜美がいて好演を見せているが、彼女の努力も上滑りしたストーリーに説得力を与えることはできない。大きな船を借りてる上に有名人が出ているのだからかなりの製作費がかかっているはずである。にもかかわらず、作品はまったく話題にならず忘れ去られたが、当然だ。この脚本ではどんな名監督が撮ったとしても結果は同じだっただろう。

映画はラストに近づくほどカメラが動かなくなり、絵がときどき切り替わるだけになっていく。もはや登場人物たちは──こんな駄作に付き合ってられるかというように──画面の端でこそこそと動くばかりで言葉を発することすらなくなってしまった。

船の中心部には工場があり、そこにベルトコンベアに乗った小さな象が運ばれていく。最終的に象は青い液体を吹きかけられてかちかちに固まり、砕かれてキャンディにされる。このマッドな施設を告発することが物語の肝になっているのだが、私にはそれが苦肉の策でとってつけた陳腐な設定にしか思えない。あのような素敵な導入シーンが撮れるスタッフなのだから、こんな駄作ではなく、もっとこくのある人間ドラマを作れたはずなのだ。自分がしっかりしてさえいれば。

 

f:id:yajirusi9:20210317170632j:plain