海に建てられたマンションの中にいる。このマンションは下半分が海中に沈み、上半分は海上に出て、下側の窓からは魚の泳ぐ姿をみることができるのだという。私は高い階から水平線に触れそうな位置の太陽を眺めていた。今は午後なので夕日のはずなのだが、太陽は朝日のような黄金色で、うみねこ達がその光の中を大きく舞って、外では強風が吹いていることがわかった。

このマンションには私の知り合いが大勢入居していて、人々はそれぞれ複雑な人間関係をつくり始めているようだった。懐かしい人と会ってみたいと願う一方、しかしそこでうまれたコミュニティとは距離をとらなくてはいけない気がする。それは煩わしさからというより、部外者である自分が場に混ざると混乱を起こす予感があるからだった。ひとりひとりとは話をしたいが、集まりには参加しないようにしよう。そのような心づもりでマンションの中を歩いた。

 

廊下の突き当たりに、ドアを開けっぱなしにしてある部屋をみつけて入った。中は空き家かホテルのようで、無駄なものが何ひとつない。大きなダブルベッドと壁掛けテレビだけが虚しい存在感を放つ部屋。窓の外にはやはり水平線ギリギリの太陽が居座ったままで、海面に反射した陽が白い壁まで届いて、光の網目模様を不規則に揺らしていた。どうやら太陽は登る気も沈むつもりもないらしい。ここではなにか、世の中の仕組みの根本的な部分が止まってしまっている。見えない透明な手で真空パックされたようだ、と私は思う。それについて恐れは感じない。最果てにあるマンションだから、まあこれはそういうものかもしれない。みんな揃って時間が止まっているように過ごせば、時間だってこちらに気をつかって止まることがあるんじゃないだろうか。

 

外から私を呼ぶ男がいる。彼がいるのはベランダというには広すぎる、建物から突き出たコンクリートのスペースで、中央にバス停のポールが立っている。私は窓を開けそこへ移り、半分ペンキのはげたベンチに座って休んだ。時刻表があるのだからいずれ何か乗り物がやってきて私を帰してくれるのだろうと期待したが、出し抜けに海の底から轟音が響き、私と男のたつ足場がゆれてマンションと分離し、川にお盆を浮かせたようにマンションから離れていく。どうやらこれ自体がひとつの小型船だったようだ。ポンポンと蒸気を発して、ゆっくりと船は進む。

「これは白浜行きですよ」と同乗者は事務的な口調でいった。

しまったな。白浜はいいところに違いないけど、それより今は家に帰りたいし、それがダメでもマンションに居る方がずっといい。がっかりしているところに、さらに大きな音──映画館の爆破シーンのような音に襲われ、あっという間に今までいたマンションが巨大な渦潮のなかへ沈んでいった。ああ、あの人も、この人も、消えてしまう。死んでしまうのだ。こんなことなら1人でも多くの人に会えるように早く部屋を巡るべきだった。いや、仮にそうしていたら、この小舟には巡り会えず、私も海の底だったかもしれない。

しかし──と思い直す。しかしこんな光景はあまりに現実とかけ離れている。ビルが沈むのは早すぎるし、渦の姿は風呂場のような軽い動きだし、まるで全てが安っぽいミニチュアじゃないか。これが誰かの仕組んだ悪戯、フェイクだとしたら、中の人たちだって人形のように綺麗な顔のまま浮かんで生き延びてもまったく不思議はない。そう、きっと1人残らず助かるだろう。不安は残りながらも、少しずつ楽観的な思いが私を支配していった。なんてことはない、ここまで大雑把な事故は夢でしかあり得ない。それに夢とはいつも覚めれば取り返しのつく世界なのだから。

 

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