雑居ビルの階段を上ると、ガラス越しに段ボールが雑然と並んでいる店がみえた。そこは開店前のレコード屋のようで、中にはひとり男性店員がいた。私は店内に入った。我々はどちらからともなく握手を交わし、友人同士のように背中を叩きあって、それから店員は自分の好きなレコードについて語った。彼の音楽の聴き方は徹底していて、かける曲を状況によってわけているらしい。風呂に入る前にはこれを流すし、腹が減ったときにはこれ、真っ暗な嵐の夜にはこのアルバムがいい、といった具合に。自分はそのような聴き方をしないけれど、そこまできっちりしてるのは面白いね、と私はいった。考えのちがいはあるにせよ、音楽好きという点で共通しているから会話の上では何も不和はなかったが、話すうちにだんだん体が近づいて、いつに間にか我々はレスリング選手のように上半身で組み合って、互いに技を出しあっていた。投げ勝ったのは私の方で、そのまま腕関節を取って力を加える。と店員は目を細めて微笑んだように見えた。いや、口角を上げて目を閉じている、この表情はもしかしたら反対に、苦痛を示しているのではないか。ふざけ合っているのか本気なのか判然としない雰囲気のまま、しばらく時間がたったが、しだいに罪悪感が膨らんできて手をほどいた。どうもやり過ぎてしまった。会った時とは反対に、我々はよそよそしく、ひとつも言葉を残さず別れた。

 

家に帰って、風呂に入っているときにインターホンが鳴ったのででると、玄関にスーツを着た若い女性が立っていた。肩までの髪をセンターで分けている、彼女は、体をまっすぐこちらへ向けて、ゆっくりと正座した。

「私はヒガシさんの代理人です」と、その女性は言った。「昨日の夜、あなたはヒガシさんの体を痛めつけましたね。彼は右腕の関節を傷め、その後遺症、加えて心のダメージを負っています。直接加害者のあなたと会うのはたいへんな労力をつかうことですし、それをするには、ヒガシさんはあまりにも傷つき、疲れすぎてらしゃるようです。というわけで私がこの件の間に入らせて頂くことになりました」

「そうですか。確かに、はい。間違いないです。わざわざ来て頂いて、申し訳ありません」

代理人は私が店員にふるった暴力について説明をはじめた。台詞を読むように、弁舌さわやかに語る内容は、私が経験した記憶よりも事細かく格闘の様子がまとめられているくらいで、もしかしたら彼女はあの時そばで見ていたのではないか、と私は思った。一通り状況を話し終え、それから私の置かれている立場からどうすれば適切に、誠実に対応できるのか、これからの解決に向けたところへ話が移った。咎められ、正しい道を示されするなかで、私は自分が情けなくなり、心のなかで反省が大きくなっきた。そうだな。逃げ隠れせずきっちり償わないといけない。

「わかりました。本当にひどいことをした、といま身に染みて感じます。こんなことを起こしてしまって、なんと言えばいいのか、悪い事ばかり起こしてますが、この件でひとつだけ良かったことがあります──それは」と私は一呼吸置いて、右手の指を5本広げ、左手は人差し指だけ立てて、代理人の目を見て言った。「それはあなたみたいな人が、間に入ってくれたことです」

こう言ったあと、興奮から自分がひどく演技めいたポーズをして、わざとらしい台詞を吐いたことが恥ずかしくなった。許すか許さないか、感情的評価を決めるのは代理人の仕事ではないのだから、こんなときに情状酌量を求めるような態度に出るのは筋がちがっている。言葉は全てが嘘ではなかったが、じっさい早くこの人を良い気持ちにさせて話を切り上げ、今日はゆっくり休みたいと思ったのも確かだった。代理人は方便を見抜いたかのように、冷めた表情でうなずく仕草をしたのみで、あくまでも事務的な所作で鞄から紙を出してみせた。「これが和解金額です」

受け取った請求書には130万と書かれている。この額についていま議論するべきではないのだろう。高額とはいえお金については払えば終わるものだが、それだけで本当の贖罪になるのかはわからない。私はこれから、攻撃的な危険人物。と周りの人たちから思われることになるだろう。それを受け入れて、生活の振る舞いを見なおすべきなのかもしれない。頭の重さが倍になったような気分になり、代理人を見送ったあとすぐにベッドに入った。

 

翌朝目がさめて、ああ、良かった!夢だった──と私は突然の解放感に浸った。俺は何もしてない!130万なんて、あんな暗い数字は幻だ。何もない。それにしてもきつい夢をみたなぁ、はやく精神を現実に戻そう。とテレビをつけるとニュースが流れて、再びあの時の記憶が鮮明になってきた。

自分は、あのレコ屋で、たしかに、男と会っている。手を組んだ感触まで思い出せる──ということはやはり、事件は本当にあったんだ。夢じゃない。たんに1日寝ただけで、全部現実は残っている。なんてこった。そうとなったら落ち着いて、状況を認めないといけない。まずは代理人が残していった書類を確認してみよう。

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